今世紀初頭にイタリアで起こった芸術運動を御存知だろうか。それは「未来派」と呼ばれる、前衛芸術の一大ムーブメントだった。詩人であり、天才的な煽動家でもあるフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティを先頭に繰り広げられたこの運動は、機械文明の称揚、速度への憧れ、伝統や権威の否定、また流線型の多用と大胆なフォルムを特徴とし、絵画、彫刻、文学、演劇、音楽、建築、写真、映画、グラフィック・デザイン、ファッションなど、現代の我々を取り巻く芸術全般に多大な影響を及ぼした。しかしながらその運動自体は、速度や機械といった力への、過度の欲望を引き起こし、結果として破壊的・排他的なファシズムと軌を一としてしまったのだ。近年、アートの世界ではこの未来派を再評価する動きが高まっているが、私はそこに嫌な気配を感じとる。つまり閉塞的な気分に纏わりつく時代背景が、驚くほど第二次大戦前の不安な叫びと似ているからだ。
この未来派が生まれた頃、同じくイタリアでは一人の男が存在した。その名は、グリエルモ・マルコーニ。電磁波を通信に用いることを着想し、1895年に故国イタリアで2.4kmの距離の通信に成功。その後イギリスに渡り、1899年には英仏海峡(ドーバー)約50kmの通信に成功、続いて1901年には大西洋横断実験にも成功した。無線通信は、船舶の運行にも利用されるようになり、1912年に起きた「タイタニック号沈没事故」の際には、無線通信によって多くの人命が救われたことから、彼の名声は一気に世界へ高まった。1924年の関東大震災の時には、日本から発せられた無線はサンフランシスコで傍受され、全米そしてヨーロッパへと伝えられた。これを聞いた各国から救援物質が到着し、震災後の復旧が早まったのだ。1909年にノーベル物理学賞を受賞。マルコーニは、まさに「無線通信の父」である。
20世紀は、戦争の世紀、映像の世紀、科学の世紀など色々とたとえられるが、その中においてやはり、通信の世紀だったと言えるだろう。そのぐらいに通信技術の発達は我々の生活すべてに影響を及ぼしている。波長の長い標準電波から、波長の短いミリ波通信までの間の電波を用いて、ラジオ・テレビなどのマス・メディア媒体は言うに及ばず、 衛星通信や携帯電話、そしてモバイルなどの情報端末があたりまえのように我々の生活に根づいているのだから。
そういう意味では、未来派達の洞察は正しかったのかもしれない。1909年2月20日付けの『ル・フィガロ』に掲載された、マリネッティのあまりに有名な「未来派設立宣言」の中に、こんな一文がある。
「世界の輝きにひとつの新しい美、つまり速度の美がつけ加えられたことをわれわれは宣言する。蛇のような巨大な排気管で飾られたトランク付の、爆発のような呼吸で走行中の自動車、一斉掃射と戦うかのように咆哮する自動車は、《サモトラケの勝利》よりも美しい」(松浦寿夫訳)。
ここで言うサモトラケとは、勝利の女神ナイキ、あるいはヴィクトリアのことで、暗にイギリス・ヴィクトリア朝の保守的な時代を揶揄している。そのサモトラケの勝利よりも美しいと、マリネッティの目に映ったのは、果てしない速度の欲望であり、それを支えた科学技術体系の中には紛れもなく、マルコーニの無線通信が含まれていたはずだ。
マルコーニは、裕福な地主であったジュゼッペ・マルコーニと、アイルランドからオペラの勉強のためにボローニアに来ていたアニー・ジェイムソンとのあいだに、1874年4月25日、次男として生まれた。恵まれた環境に育ったマルコーニだが、彼はリボルノで正規の授業としてローザ教授から物理学の講義を受けた後は、大学に行かず、もっぱら家庭に教授達を呼び寄せ、勉学に勤しんでいた。そんなマルコーニの一大転機は1894年の夏、イタリア・アルプスの別荘に避暑に行っていた時、図書室で見つけた科学雑誌の中に、ヘルツの実験を紹介する記事を見つけた時からだったと言われている。いてもたってもいられなくなったマルコーニは急いで家に戻り、実験を開始した。この時、彼を指導したのが、イタリアにおけるマイクロ波研究の第一人者であり、先の雑誌の記事を書いていたリギ教授であった。無から出発したマルコーニがたった一年で2.4kmの通信に成功した背景にあるのは、リギ教授の指導を始め、彼の装置の各部分が、既存のものに改良を加え、性能を高めたことによるということが大きい。つまりマルコーニの発明のポイントは、すでに開発されている技術を用いながら、それらを繋ぎあわせるアイディアにあった。そのアイディアが彼の才能であり、電波の検出器としてコヒーラ(細いガラス管の中に金属粉をゆるく詰めたもの)に工夫をこらして感度を高めたことなどの集大成が、世紀の大発明を生んだのだ。