新しい〈帝国〉の誕生 2
イラクへの圧倒的な武力攻撃が終焉した後に書き替えられた世界地図において、アメリカという毒々しい色彩が地図上に塗りたくられた面積は非常に大きくなった。
同時にこれまでの世界秩序を極端に狂わせるほどに肥大したこのアメリカという勢力を、〈帝国〉と位置づける声が日増しに強くなっているのは、危惧を敏感に嗅ぎ取るマルチチュードの良心の現われと解釈しても良いだろう。
マルチチュードとは、一般的には大衆だとか民衆だとかに訳されることも多いが、体制に飲み込まれることを拒絶しながら自律化し、運動化する複数の人々のことである。ここでは話題の書物であるアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉』に倣って、マルチチュードという言葉をそのまま使用することにしたい。
アントニオ・ネグリは、1933年イタリアのパドヴァに生まれる。マルクスやスピノザの研究で世界的に知られる政治哲学者。労働運動の理論と実践にかかわりながら、その運動に対する当局の弾圧によってテロリストの嫌疑をかけられ逮捕・投獄される。フランスに亡命し、パリ第8大学で研究・教育活動に携わり、この時に共著者のマイケル・ハートがネグリに師事する。
現在はイタリアに帰国し、一時期ローマ郊外で再び収監されたのちに、仮釈放の身分で執筆活動をしている。近著『〈帝国〉』が哲学書としては久しぶりに書肆界を賑わしているので、読者の方も書店で見かけたことがあるのではないだろうか。
ここで語られている〈帝国〉とは、世紀末の転換期に姿を現わしてきた新しい世界秩序、つまり主権の移行と、生そのものをまるごと対象とするような新しい生政治的な秩序、つまり生産の移行をはっきりと名指しし、それを把握するために、ネグリとハートが創りだした概念である。
ネグリ=ハートの言う〈帝国〉とは、帝国主義とは違い、ある中心的な国民国家の主権とその拡張の論理にもとづくものではない。〈帝国〉的主権は、脱中心化されたネットワーク状の支配装置なのであり、物理的領土を必須の要素としていた国民国家の主権とは異なり、そのような意味での領土を持たない〈非-場〉において成立する。
ネグリらは、これに対抗する力としてマルチチュードの可能性に賭けてみる。17世紀オランダの特異な政治哲学者スピノザに由来する「マルチチュード」という術語は、「群衆」「多数性」「他性」などとも置き換えられるが、これまで国民国家の枠内で、単一かつ均質な同一性として措定されてきた「人民」「国民」という概念と区別し、多数多様性を指し示すものとして本書では、このマルチチュードというスキームを用いているのだ。
つまりここでいうマルチチュードとは、グローバル化のプロセスを民主化するために立ち上がるあらゆる人びとのことである。ネグリたちが考えるのは、オルタナティヴでグローバルな規模でのマルチチュードによる異議申し立てが、唯一の〈帝国〉のグローバル権力に対する力だということだ。
ポスト構造主義哲学者ミシェル・フーコーは、「抵抗は権力に先立つ」と大胆に言った。ネグリ=ハートによれば、強大に見える〈帝国〉は、それに立ち向かう新たな革命的主体性としての「マルチチュード」によって先立たれ、支えられているのだ。
言いかえれば〈帝国〉が強大であるとき、マルチチュードもまた強大であるのだ。マルチチュードという織物を創造的なものにするとき、我々はそこに多数の声を聴き取り、それらの声に揺り動かされながら、自らもマルチチュードへと生成変化し、その運動のなかに自律的に組み込まれていくと考えられる。
では、暴力的に立ち現われている〈帝国〉とそれに付随するグローバリズムの大波に掻き消されようとしている一人一人の小さな声を、このマルチチュードとして反映させるにはどうしたら良いのであろうか。
ネグリは、「9.11」以降のマルチチュードの可能性についての切り札を、『マニフェスト』誌のインタビューでこう語る。
切り札は二枚です。脱出(エクソダス)と抵抗(レジスタンス)です。そして両方のカードを切ることが必要です。脱出とは、ゲームへの参加を拒むこと、現在のゲームとは違う側に立っていることを示すことです。しかし同時に、野蛮(バーバリズム)の復帰に直面している今、改革派と出会える場所で、抵抗することも必要です。運動は脱出だけに基づいて構築できるのですが、同時に抵抗する必要があるのです
これに対応するのは、ドゥルーズ=ガタリのこの言葉である。
私たちはコミュニケーションを欠いてはいないのであって、反対に、コミュニケーションを持ち過ぎている。だが、私たちには創造が欠けている。私たちには現在に対する抵抗が欠けているのである
本書は、自らテロの温床を作り出し、そのテロという犯罪行為を戦争状態にまで持ち込む〈帝国〉が、どのようにして始まり、成長してきたのか、また市場原理という経済における原理主義が、いかにして我々の日常生活を巻き込みながら生政治(剥き出しの生)へと転換してしまったのか、を冷静に分析し、現状分析に留まらず、将来の可能性をマルチチュードの活動に向けている実践の書物だ。
〈帝国〉を起点として、現代社会を急速に形作っているグローバリズムという得体の知れない強烈なウィルスに対し、ポストコロニアル理論、カルチュラル・スタディーズ、H・アレント、マルクス、ドゥルーズ、スピノザ等の社会批判理論を照査し、援用し、現在進行形の出来事のために再構築していく様子は、優れた推理小説を読むみたいに心地よい。
しかしネグリ=ハートが言及するように、マルチチュードがグローバリゼーションの質的転換を果たす主体となりうるのであろうか?
グローバル化に対するオルタナティヴな実践の可能性が世界を解放するという根拠はどこにあるのか?
それはジョン・レノンの『イマジン』のように崇高で、理想的ではあるが、あまりに遠い道のりであるとも言えるだろう。
Category : 政治 |
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