眠れぬ夜のグレングールド
数年前のこと、仕事上のストレスからか、私生活上の諸問題からか、うつ病ぎみだったことがある。普段は布団に入れば、ものの5分で寝てしまう「のび太」みたいな私なのだが、その頃は明け方まで満足に眠れなかった。
だからアロマテラピーや瞑想など、睡眠に結びつくことはいろいろ試してみた。ラベンダーのエッセンシャルオイルをアロマバーナーに灯した薫りは、確かに心地良かった。高校時代の保健の先生に教わった自律神経をコントロールする瞑想法も、心を落ち着けるためには確かに役立った。だけどそれらが眠りに結びつくことはなかった。それくらい精神がダメージを受けていたのだ。
お香も焚いたし、セントジョーンズワートなどのハーブも飲んでみた。波の音のCDも聴いてみた。あらゆる手だてをとってみたが、大した効果はなかった。
しかし収穫もあった。それが今回紹介するグレン・グールドの演奏する『ゴルトベルク変奏曲』だ。『ゴルトベルク変奏曲』は、J.S.バッハが作曲したクラヴィーア練習曲集(1741年)の中の第4部のことで、『ゴルトベルク変奏曲』という名称は後世につけられたものである。
この曲は、当時カイザーリンク伯爵という人物が不眠症に悩まされていて、バッハに依頼して眠りにつけるための音楽を作曲して貰ったものだ。この時、カイザーリンク伯爵の寝室脇にあった控えの間で、チェンバロを演奏していたのが、ヨハン・ゴットリープ・ゴールドベルクという人だったので、彼の名前にちなんで『ゴルトベルク変奏曲』と呼ばれるようになった。
曲は冒頭に演奏されるアリアと、その変奏曲30曲からなる。最後にもう一度、冒頭のアリアが繰り返されて、一つの全体が構成されている。ちなみにアリアは、バッハの『アンナ・マグナレーナのための小曲集』に含まれている小曲で、とても美しい旋律の印象的な作品である。
この『ゴルトベルク変奏曲』を広く世に知らしめたのが、グレン・グールド(1932-1982)だ。グールドはトロント生まれのピアニストである。幼少時より天才の名を受けていたが、1955年に『ゴルトベルク変奏曲』で衝撃的なレコードデビューを果たした。
誰にも影響を受けていないかに見える彼の演奏スタイルは、日常生活や演奏時の奇行と共に、現在に至るまで伝説とされている。
1964年には一切のステージから立ち去って、レコード制作に集中するようになった。「コンサートは死んだ」という言葉を残して。ステージでは必ずしも満足する演奏が出来ないからである。録音技術を駆使したやりかたの方が、完璧なものをリスナーに伝えることが出来るとグールドは考えていたのだ。ステージを離れたグールドであったが、ラジオやテレビへの出演、そして評論活動はさかんに行っていった。
1981年に『ゴルトベルク変奏曲』の再録音をしたグールドは、翌年50歳でこの世を去ってしまった。そしてグールドにとっての白鳥の唄となったこの『ゴルトベルク変奏曲』の演奏こそ、類い希なる名演として世界的な賞賛を浴びているものだ。グールド自身もこの『ゴルトベルク変奏曲』という曲に関して、「不朽の鍵盤用作品の一つ」とか「前代未聞のこの壮大な構築物」といった発言をしている。
ところでグールドという人物であるが、彼にまつわるエピソードをいくつか。
○ 1964年以降はステージでの演奏をやめてしまったグールド。その頃、音楽の録音技術が向上してきたので、スタジオでのレコード制作を中心とした活動に切り替えたのだが、ビートルズがコンサートをやめてスタジオに籠もるようになったのが1970年代だったことを考えても、先見的な行動だったと言える。
○ また独特な演奏スタイルを見せたグールド。脚を極端に短くした椅子に座ってピアノを弾き、片手が空いている時には指揮者のように自分の演奏に対して指揮をとったりしてみせたり、手袋をしながら演奏したりもした。演奏中にハミングをするのはいつものこと。唸り声や息づかいは多くのCDにそのまま収録されている。
○ 演奏レパートリーが尋常ではないグールド。他のピアニストが得意とするショパンやシューマンといったロマン派の曲は絶対に演奏せず、バッハを中心にシェーンベルクやヒンデミット、ウェーベルンなどを演奏対象にし、その他ベートーベンやブラームスをわずかに弾くだけだった。ベートーベンにしてもパガデル集、ブラームスでは間奏曲集といった限定した作品しか選ばなかった。
○ そして日常生活でも独自のスタイルを固持したグールド。普段はカナダの田舎町シムコウ湖のほとりで隠遁生活をしつつ、レコーディングなど必要な時にだけニューヨークやトロントへ出向いた。飛行機は絶対に乗らない。夏でも手袋・帽子・マフラー・コートを身につけていた。
しかしそんな奇行がグールドの魅力なんかでは決してない。その演奏の素晴らしさでもってグールドは我々の心を捉えるのだ。
眠れない夜が続いたら、グールドの『ゴルトベルク変奏曲』を是非聴いて欲しい。それも1981年版を。しばし平穏なる別世界へ誘われるのは間違いないと保証します。
Category : 音楽 |
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