蝶の舌、あるいは愛と自由についての
その映画は少年の寝室から始まる。喘息のために1年遅れで入学する8歳の少年モンチョは、学校が恐いところだと不安に思い、初登校の朝をまんじりともせずに迎えているのだ。
映画のタイトルは『蝶の舌』。監督はホセ・ルイス・クエルダ。日本での公開はミニ・シアターを中心にしたものだったので、観た方は少ないかもしれない。しかし多くのメディアで好意的な評価を得ていたから、題名に心当たりのある人は多いだろう。
舞台は1936年、スペイン・ガリシア地方。スペイン北西部にあるこの地方は、アイルランドやスコットランドなどと同様、〈ケルト〉をルーツに持ち、独特な文化、歴史、風土を宿している。モンチョは初登校した教室で緊張のあまり、おもらしをしてしまう。そのことを先生に叱られると思い逃げ出したモンチョは、夜になって兄に発見されるまで森を彷徨う。担任グレゴリオは、そんなモンチョを叱るどころか、温かく迎え入れる。
グレゴリオ先生は、穏和でリベラルな考えを持つ初老の教師なのだ。だから授業ものびのびとした雰囲気の中で行われる。決して生徒を怒鳴りつけたりしない。金持ちの子どもも、貧乏人の子どもも、分け隔てなく接し、権力に対しては常に毅然とした態度で教壇に登る。病気がちだが、頭の良い少年モンチョは、そんなグレゴリオが大好きになる。グレゴリオ先生も、利発で好奇心に溢れたモンチョに一目置き、二人は緊密な交遊を始めていく。
先生は教室の外へと生徒たちをよく連れ出した。教科書では学べないものを子どもたちに教えるために、森や川や野原へと。柔らかな光と緑に溢れるガリシア地方の自然は、この映画の見所の一つと言えよう。
ジャガイモは新大陸原産の植物であること、ティロノリンコというオーストラリア産の鳥のオスは、繁殖期になるとメスに蘭の花を贈ること、そして蝶の舌は普段は渦巻きのようにくるくると巻かれていて見えないが、花の蜜の匂いを嗅ぐと、蝶は巻いていた舌を伸ばして花びらの奥の蜜を吸うことなどを、先生は教えてくれる。そんなグレゴリオの知識は、モンチョの小さな世界を確実に大きく広げていった。
この映画は同時に、モンチョとモンチョの周りの人々の恋の物語でもある。サックスを吹く兄アンドレスは、愛を知らないために良い音が出せないでいる。未熟な奏者である兄は、参加している〈オルケスタ・アデュール〉という楽団の中で、サックスを吹く振りをしているだけの存在なのだ。モンチョを含めた家族はそのことを知らず、兄をたくましくさえ思っている。しかしやがて、春を告げるカーニバルのための海外演奏旅行でアンドレスは、狼に噛みつかれて言葉がしゃべれなくなってしまった中国人の娘に恋をし、初めて素晴らしい演奏を奏でられるようになる。
モンチョと居酒屋の息子で親友のロケは、森の中に隠れ住む娘カルミーニャと牛追いオリスの逢い引きをのぞき見する。激しい愛の営みを邪魔するのは、カルミーニャが溺愛する犬のターザンだ。そのことを苦々しく思うオリスは、後にターザンを撲殺する。
ある日カルミーニャがモンチョの家を訪ねてくる。カルミーニャは父の隠し子だったのだ。母親の死を知らせに来る娘。モンチョは、教会の熱心な信者である母親に、人は死んだら地獄に行くと教えられる。そのことをモンチョに尋ねられたグレゴリオは、「いや、あの世に地獄なんてないんだよ。人間が地獄を作るのだ」とこっそりモンチョに耳打ちする。モンチョは先生に手渡されたもぎたての林檎を頬張る。楽園を追放されたアダムとイブのように。
グレゴリオが高齢のため教師を引退する日がやってくる。「ありがとう。自由に飛び立ちなさい!」と子どもたちに告げる先生。クラスのみんなはいっせいに教室を出ていく。モンチョは夏休みになったら、先生と一緒に森に行く約束をする。先生はモンチョに虫採り網と本をプレゼントする。始めはクロポトキンを手にする先生だが、モンチョに手渡したのは『宝島』だった。
夏休みが来てモンチョと先生は虫採りに出かける。蝶を捕まえた先生は、顕微鏡で舌を観察しようとモンチョに話しかけるが、モンチョの気持ちはそこにない。すぐ近くの川から聞こえる、ロケの妹アウローラの楽しげな遊び声にすっかり心惹かれてしまっているのだ。「ティロノリンコのようにしなさい!」とモンチョの背中を押してアドバイスするグレゴリオ。それを受けてモンチョは川の中に飛び込んでいき、アウローラに白い花を差し出す。彼女はそっとモンチョの頬にキスをする。
そんな幸せな日々に突然終止符が打たれる。フランコ将軍率いる右派・ファシズム派(軍部・教会・保守層)が、武装蜂起をもって共和派政権(労働者・共産主義・アナーキズム)を打倒しにかかったのだ。モンチョの母は、共和派支持の夫を守るために共和派に関する新聞や書類をすべて燃やし、家族と共に教会に出かける。広場では人だかりができ、両手を縛られた共和派の人々が軍によって連れ出されようとしていた。彼らを罵る声が飛び交う。「アテオ(不信心者)! アカ! 犯罪者!」。母親はそう叫び、夫も泣きながら同じ言葉を口走る。連れ出されて行くのは、親友ロケの父親、楽団の先輩、そしてグレゴリオ先生・・・。兄アンドレスも彼らを罵倒し、母親に促されたモンチョまでも、車で運ばれていく先生を追いかけて石を投げつける。
スペイン内戦が始まったのだ。
Category : 映画 |
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