奈良美智 ~ 孤独な巡礼
ヒプノセラピー(催眠心理療法・退行療法)が密かに流行っている。それは誕生時あるいは幼少期に受けたトラウマ(精神的外傷)を見つめ直し、その後の人生に及ぼしているさまざまな問題症状を改善するための心理療法だ。セラピストの誘導により、顕在意識が一時的に休息をはじめ、クライアント(相談者)は、自分自身の心の奥深く潜在意識の領域へと入って行く。
深いリラックス(リラクセーション)と同時に、集中力・洞察力が内面に向かって増大し、普段は思い出す事のない、あるいは思い出せないと考えている記憶や(固定・先入)観念、信念、心の奥深い感情、心の奥にしまい込んでいた記憶、記録等が様々に浮かんで来ると言われる。
特に女性、それも若い女性の間でこのヒプノセラピーが受け入れられている背景には、〈癒しの時代〉における自分探しが、茫漠として閉塞的な未来にではなく、確実に存在し、確実に通過していった過去の自分の中に求められているからだろう。それは温泉に浸かったり、マッサージを受けたりといった一時期的な癒しではなく、幼少時に何らかの理由で傷ついてしまった心の痛みを長期的に治癒するものだ。
ネガティブな自己暗示によって形成されたイメージは、潜在意識下では、現実として記憶・記録されてしまい、その後の人生に継続的な悪習慣を植え付けてしまう。ヒプノセラピーは、そのネガティブ感情を見つめること、ネガティブな感情に気づくことを我々に求める。確かにそれは正しい。なぜなら真の癒しとは、気づきの後にしか訪れないからだ。
吊り上がった目、おかっぱでざんぎりの髪の毛、三等身、鼻の穴をひろげ、いつも何かを睨みつけている(あるいはうつろな目をしている)少女の絵を御存知だろうか? 奈良美智(ならよしとも)の描く繊細な絵画が若者の心を捉えている。不毛さが続く現代美術の世界で、彼ほど広く支持されている人物はいない。吉本ばななの小説の装丁に作品が使われてから、一気に人気が高まった。昨年は横浜美術館で「奈良美智展 I DON'T MIND,IF YOU FORGET ME」が開かれ、若い女性を中心に圧倒的な支持を受け、特に奈良グッズの売り上げは、入場者対商品販売数において、同美術館史上例を見ないものとなった。
可愛さ、無垢さ、純粋さ、残酷さ、不気味さ、悲しさ、寂しさといったものを兼ね備えた独自の世界を絵画、あるいはドローイング、インスタレーションの中に展開する奈良ワールドであるが、出る杭は打たれるの顰みどおり、当然ながらそれを酷評する声もある。その論陣の先頭を切るのが、『構造と力』で80年代のニューアカ・ブームを牽引した浅田彰だ。【かくも幼稚なる「現代美術」】(『VOICE』2001年10月号)という論考において、日本の現代美術が陥っている「小児化」や「動物化」といった現象に対して真っ向から非難を唱え、その代表として奈良の名前をあげる。
「たしかに記憶に残りやすい絵柄ではある。本の装丁などによく使われるとしても、驚きはしない。あんな小汚い白痴的な絵を平気で使うというのは、著者や編集者が知性もセンスもないことを告白しているようなもので、その本を手に取る手間が省けるという効用(?)がある」
と浅田は撃破する。しかしこれは、一時代を征した者とは思えないほどの低レベルな論評だ。浅田彰自身が二等身の幼児体型で、あまりにも不細工な容姿と体躯を自らに抱えているものだから、奈良の描く繊細で可愛らしい少女のふるまいに嫉妬を覚えるのかもしれない。頭でっかちで勉強しか取り柄のなかった浅田には、奈良の描く少女や犬の可愛らしさの背後に透けて見える、孤独で、それでも生き続けなければならない者のよるべない儚さや脆さが見えないのだろう。
例えば奈良は犬の作品を多く手がける。やはりそこに描かれる犬はひとりぼっちだ。あまり知られていないことだが、奈良自身は犬より猫のほうが好きだと言う。それでも猫ではなく犬を描くのは、少年時代に捨てに行った犬への贖罪の気持ちからではないか、と彼は自らの無意識を回想してみせる。
NHKの番組が奈良を特集した時に、彼の制作現場をドキュメントしてみせた。少年時代からパンクロックに傾倒する奈良は、アトリエいっぱいに大音量で音楽を流し、思考よりも素早い腕の動きにより刷毛をキャンバスに擦りつける。気に入らなければ何度でも塗り直し、描かれる少女の顔や姿は、次から次へと形を変えてゆく。下地が乾く前に重ねられた絵具は滲み、暴力的な線となって幽かにキャンバスに残存する。
ナイフを持つ子ども。ぐるぐる巻きの包帯をした子ども。頭に釘を打たれ血を流す子ども。そのゴシックな感覚はまさに同時代的ではあるが、売れるための戦略ではなく、パンクスの遺伝子である荒ぶる奈良の初期衝動が、それらを描かせる。決して売れるためではなく、また誰かにわかって貰うためではなく、奈良は自分自身のために描くのだ。
彼は彼の日記の中でこう書く。「僕が美術と呼ばれるものにたいして思うのは、まずその作品が自己表出たりえていく実感と達成感か。そして作業をつうじて自己を深めていくことができること。いや、なによりも楽しいこと」
時に人は、話すことがないから沈黙するのではなく、話すことが多すぎて沈黙せざるを得ないのだ。奈良の作品には、怒りや喜びや悲しみといったものが、名前をつけて分類されるずっと以前の原初的な感情として描かれる。それはセラピーだ。ヒプノセラピーが魂の内奥を癒すように、彼の絵は、奈良自身へのセラピーとなり、見る者の内面を投影したセラピーとなるのだ。
だからこそ奈良の描く少女の心の刃は、外の世界には決して向かわず、巡礼する旅人の視線のように、いつでも自らに向けられているのだ。
Category : 絵画 |
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