言うまでもないことだが、映画とは光の芸術である。光を切り取った芸術である。同じように写真も、光をレンズとフィルム(フィルムという概念は駆逐されようとしているが)によって捉えるものだが、映画と写真の決定的にして絶対的な違いは、動きにある。写真はそこに留まり、映画は動いてゆく。留まることを知らない。まるで人生のように。
心魅かれるシーケンスに立ち会った瞬間、我々の気持ちは動揺する。美しいシーンを観た瞬間、我々のエモーションはときめく。だけど映画は立ち止まらない。我々の心を置き去りにして、先のほうへ、もっと先の方へと進んでゆく。まるで『不思議の国のアリス』におけるアリスのように、待ち受ける場所にはもう次への導きがなされているのだ。やれやれ、それが映画の魔力なのだ。
光の芸術である映画にはもう一つの顔がある。そう、映画とは暗闇の芸術でもあるのだ。普通映画は、1秒間に24コマの速さで進行してゆくのだが、人間の視覚構造上、なめらかな動きを見せるために1コマに対して2回、映写機のシャッターが切られる。つまり映画は1秒間のあいだに9分の4秒も、シャッターが造りだす暗闇を合せ持つのだ。我々の意識はそのことに気がつかない。ただ光を見ていると思っている。光だけが我々の味方であると思っている。だけどそれはとても危険な考え方だ。真実はいつも見えないものを内包させているのだから。
21世紀の最初に私が観た映画は、アイスランドの歌姫ビョークが主演する『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だった。ビョークは、80年代「インディーズ・ムーヴメント」の時代に、シュガーキューブスというキュートなバンドを組み、300万枚以上のセールスを記録、ソロになってからも精力的かつ魅力的な作品を次々と作りだしている天才アーティストだ(個人的には、『Gling -Glo』が彼女の中で一番好きなアルバムだ!)。
監督はラース・フォン・トリアー。『奇跡の海』でカンヌ映画祭審査員特別賞を受けたフォン・トリアーは、ストイックな作風が特徴で、自ら考案した映画文法ドグマ95(オール・ロケ、手持ちカメラ、自然光による撮影といった「戒律」を宣言し、かつてのシンプルな撮影方法に回帰した映画制作)は、ハリウッド映画の予定調和作法を真っ向から否定する、デンマークからの挑戦状である。
さて『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だが、物語は1960年代のアメリカを舞台にしている。主人公セルマ(ビョーク)は、一人息子のジーンを連れて共産主義国チェコから移民してきた。母一人子一人の生活を支えるために片田舎のステンレス工場で働くセルマ。親切で優しい工場の同僚キャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)やセルマに愛情を抱くジェフらの友情に囲まれて暮らすセルマは、トレーラーハウスを貸してくれている警察官のビルとその妻リンダとも交遊を持ち、貧しさの中で穏やかに暮らしていた。しかし彼女は先天性の病である視力を失う奇病を抱えていて、同じように息子ジーンも、一刻も早く手術を受けない限り視力を失ってしまう情況に置かれていた。
ジーンの手術代を捻出するため、彼女は一生懸命に働く。ほとんど見えることのできない視力で。昼間の勤務だけではなく、夜間勤務までも申し出、その上ヘアピンを紙留めする内職をして。そんな精一杯に生きる彼女を内側から支えるのは、ミュージカルへの情熱的な愛だ。ミュージカル、歌、踊り、それらが彼女を過酷な労働から救っている。
町のアマチュア劇団で『サウンド・オブ・ミュージック』の主役マリアに抜擢された彼女は、忙しい仕事の合間を縫って稽古をする。キャシーとミュージカル映画を観に行くことは、彼女のささやかな楽しみなのである。仕事中も彼女は自分がミュージカル・スターであることを夢想する。殺風景で抑圧的な工場という労働環境の中にいても、セルマにかかれば、工場のあらゆる機械的なノイズはリズムを叩きだし、一緒に働く人々はまるでダンサーのように群舞する。夢見ることだけがセルマに許された贅沢なのだ。しかしそんなセルマに対して不幸が次々と襲う。
極度の疲労と失明寸前の視力のせいでミスを起こすセルマは、工場を解雇されてしまうのだ。おまけにジーンのためにお金を貯めている秘密を知っているただ一人の人物ビルに、そのお金を盗まれてしまう。そして警官ビルの元を訪れたセルマは、彼とのもみあいの結果、スミス・アンド・ウェッソンを暴発させ、ビルを射殺させてしまうのだ。そんな彼女を待ち受けたのは、死刑判決だった・・・。
この後に続く壮絶なストーリーについては、監督からの強い要望により記述することができないが、セルマは息子のために必死で貯めた2056ドル10セントに、ジーンの未来を託す。決して見えない未来に。。。
この映画の冒頭の部分の4分ほどは、音楽だけが流れる真っ黒な画面が映し出される。それはセルマの世界へのプレリュードだ。暗闇を見つめることに慣れていない者にとって、何も映し出されないスクリーンを見るというのは、苦痛な体験である。
だから我々は黒みのスクリーンを凝視しながら、音楽に耳を澄ます。観客たちの立てる物音に耳を澄ます。目という器官にばかり頼っている自分の存在の不確かさにクラクラしながら。見えないことから逃げないように。そこから我々はセルマの内面へと深く入り込むのだ。2時間20分という限定された時間の中で、盲目になることを体験する。
見えないものを見ること。聞こえてくるものを見ること。触れるものを見ること。映画という光の芸術が、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマを通して、暗闇の芸術になる。絶望を恐れないこと。決して絶望に負けないこと。セルマは歌う。セルマは踊る。彼女は生きることを全面的に肯定し、絶望の中で光に手を差し延べることを教えてくれる。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は普通の映画ではない。まるで絶望的な暗闇に神の恩寵が舞い降りている、そんな奇跡的な映画なのだ。