増殖するサティアン
山梨県上九一色村に作られたオウム真理教の「サティアン」と呼ばれる一連の施設群を思い起こす時、我々の置かれている現在がいかに陳腐で貧困かという事実に、私は今さらながら当惑してしまう。事件当時、マス・メディアはこぞってオウム真理教を叩いていた。もちろんあれだけの犯罪を犯せば、そういった社会的制裁は当たり前のことかもしれない。しかしながら歴史上類を見ないあの忌まわしい事件を経験した当時も今も、オウムを語る論説には、そこから何を学ぶべきか、という視点が著しく欠けている気がしてならないのだ。
おそらく誰もが「サティアン」を見たときに、いわく言い難い異様な感情を抱いたに違いない。富士山麓ののどかな村に忽然と建つ巨大な施設群に対して。それは1997年に来るといわれたハルマゲドンに備えて急速に作られたものだった。
ちなみにサティアンとは、サンスクリット語で真理を意味する。オウムにとっての真理は、極めて現代的な意匠に包まれていた。各施設は住居・本部のあった第六サティアンの他はすべて、印刷工場、化学工場、パソコン工場、作業場、倉庫などとして利用されていたのだ。それら施設用地、化学物質および工作機械類などには百億円を超す資金が投入されていたと言われる。
信者達自らによって施工された施設は、プレファブリケーションのお粗末な造りがとても印象的だった。住居も工場も内部は複雑に入り組んでおり、信者の居室に至っては、留置場のような狭い空間をベニヤ板のパーティションで仕切ってあるだけの空間だった。化学プラントは次から次へと無計画に推し進められた様相を呈し、むき出しのダクトが四方に張り巡らせれてる姿からは、そこがシャンバラ(理想郷)を目指す密教徒の宗教施設と考えるのは、やはり無理があるとしか言いようがない。
それでも彼らはそこにいたのだ。それがマインド・コントロールによるものか、あるいは自らの意志によるものかは知りようもないが、多くのサマナ(出家信者)は毎日何時間も座禅を組み、教典を唱え、ネズミやゴキブリが這い回ろうとも気にせず、ひたすら身体と精神の量子的飛躍を試みていたのだ。すぐ横では、サリンを始めとする化学兵器や銃器の密造を行っていたとしても。しかしながら、それは笑えない。笑えなんかしない。馬鹿にすることも出来ない。もし馬鹿にすることが出来るなら、そいつこそよっぽどの馬鹿かまぬけだ。
雪印の牛乳に黄色ブドウ球菌が含まれてしまい、1万数千人もの食中毒患者を出してしまった事件は記憶に新しいが、その後明らかとなってゆく牛乳の再利用や装置の洗浄の杜撰さなど工場での実態には、やはり、という思いが拭えなかった。かつて某大手パン工場でアルバイトをした時に私が感じたのは、工場というのはあらゆる意味で異常だということだったからだ。
人間の能力ぎりぎりの高速度で運転されるベルトコンベヤー、皆が同じ白衣と帽子を被った光景、広い空間に響き渡る機械の騒音、一切の会話を否定する徹底的な管理体制、数え上げればきりがないが、そのどれもが人間性をことごとく叩き壊してゆくものだった。そして一度動かしてしまったラインというのは停めようがないのだ。それが何か決定的な過ちと外部に指摘されるまでは。
私がしたアルバイトは菓子パンの製造だった。ジャムパンの生地が流れてきたら、一斉にジャムパンの支度に取り掛かり、それに慣れた時にはもういつのまにかチーズ蒸しパンが流れてくるといった慌ただしさは、例えるならまさにチャップリンの『モダン・タイムズ』だろう。さすがに私の体は歯車の中に巻き込まれてペラペラになったりはしなかったが、映画と同じように何もかもが不条理だった。
ピザパンを作っていた時のこと、不注意で私は指にケガをして大量に血を出してしまった。しかしながらそんなことでラインが停まるようなやわな工場じゃなかった。ピザ・ソースに私の血がついたピザパンが次々とパッケージされてプラスティック・ケースの中に押し込まれていったのだ。もちろんそれは市中に出回り、コンビニエンス・ストアか何処かで売られて、無垢な消費者の胃の中に納まったのだろう。
悲しいけれど、このことは特別驚くことじゃない。それがいかにおかしいことのように思われても、工場というのはそういった場所なのだ。幾ら入り口で埃を払い落とそうが手洗いをしようが、一歩中に入ってしまえば、床に落ちて汚れたパンさえ再びベルトコンベヤーに載せられてゆくのだ。厚生省や関係省庁の目が光っている所だけ、見せかけの管理を行えば、あとはいかに効率良く、無駄を出さないかだけを考えるのが有名無名に関わらず世間一般に流布している企業理念なのだから。
それはとても恥ずかしいことだ。だけど高度資本主義社会というのは、そういった場所でもあるのだ。だから「サティアン」を馬鹿にするものは、この社会がすでに超巨大な「サティアン」だということに気づいていない裸の王様なのだ。自分はそんな裸の王様ではないと自負する者も、オウム真理教そのものが、我々自らの似姿であるということに、もっともっと気づかなければいけないのではないだろうか。
ちなみに件のパン工場のアルバイトは、もちろんその日一日限りで辞めたことも言い添えておきたい。
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