カフェのある風景
その時ぼくは恋をしていた。それは人生に一度あるかないかの恋だった。あらゆるものが彼女のまわりでぐるぐると廻っていた。そんな季節だった。そしてぼくには夢があった。小説家になる夢だ。ずっとずっと失うことのなかった夢。あらゆる挫折の前でも夢があればぼくは平気だった。負けはしなかった。
そんな彼女を日本に残し、十代のころから憧れていたアメリカに、ぼくと親友は二人で修業の旅に出たのだ。 ぼくらは意気込みながらサンフランシスコに渡った。ホリデー・インに宿をとり、朝は早くに目を覚まし、ぶらぶらと歩きながらチャイナ・タウンに向かい、粥を食べ、それぞれの一日がはじまる。ぼくはシティー・ライツ・ブックストアが開くのを待って、路上に座り込み、道行く人々を眺めながら詩を書き、そして彼女のことを思っていた。
シティ・ライツは、ビート詩人のローレンス・ファリンゲッティが経営する書店で、あのアレン・ギンズバーグの『吠える』もそこから出版されたのだ。ビート、あるいはビートニク。ギンズバーグ、ジャック・ケルアック、ウィリアム・バロウズ、ニール・キャサディを中心とした彼らビートたちは、戦争が終わり画一化・効率化を推し進めるアメリカにおいて、人間の本当の豊かさを追い求めた詩人・小説家たちだった。1950年代を席捲した彼らの一連の動きは、反戦・反資本主義・反西欧文明、あるいは狂気、同性愛、非白人などのアメリカ社会が排除するものを「最良の精神」として再定義した。だけどそれは、それら紋切り型の言葉では収まりきれない放埒なものだった。ドラッグにのめりこみ、ジャズをこよなく愛し、あらゆる既成のものを叩き壊してゆくトリック・スター。ヒップでクールな荒ぶる天使たち。
そんなビートニクたちのホーム・グラウンドであるシティ・ライツ書店にぼくは毎日出かけ、二階の椅子に腰かけ、書架に並ぶ数々の詩集を貪るように読み耽ったのだ。いつでも窓の外には洗濯物が干されていて、青空をバックに風に揺れていた。とても素敵な光景だった。彼女のことが恋しかった。頭が煮詰まると、近くにあるスターバックス・コーヒーで休憩をとるのが日課だった。カプチーノにシナモンをたっぷり浮かべたのがぼくのお気に入りだ。ペーパー・バックに飽きると、彼女に手紙を書く。いったいぼくは何処へ行こうとしているのか、よくわからなかった。
サンフランシスコでは、市バスに乗ってよくヘイト・アシュベリーに出かけた。ヒッピーの発祥地であるヘイト・アシュベリーのポエトリー・カフェでは、奇抜な格好をした若者たちが思い思いのオリジナルな詩を読み上げ、ボンゴを叩き、ターン・テーブルをまわしている。
ポエトリー・リーディングは、1930年代に人種差別に抗議する都市生活者の黒人が街頭で演説を始めたことに端を発していると言われるが、ビートニクたちは、積極的に自らのパフォーマンスとしてそれを取り入れた。「オープン・マイク」と呼ばれる飛び入りに時間になると、ぼくは何度もステージに立つことを考え、だけど一歩足を踏みだす勇気がなかった。それは決定的なぼくの弱さだった。彼女はそんなぼくの弱さを愛していてくれた。たぶん、間違いなく。その旅の間じゅう、ぼくは普段彼女がしている銀の指輪をお守り替わりにしていた。繋がっているものが無性に欲しかったのだ。
それからぼくらはニューヨークに移った。ニューヨーク!ニューヨーク!ニューヨーク! すべてはそこから始まったのだから。小学生の時にはまってしまったサイモン・アンド・ガーファンクル。中学生のときにはJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。ボブ・ディラン、ルー・リード、スザンヌ・ヴェガ、佐野元春。ぼくの人生に多大な影響を与えてくれたこれらのアーティストのすべてが、ニューヨークの街角を唄にしていた。そんなニューヨークでも、ぼくはスターバックスを牙城とした。その頃には雨後の筍のようにいたるところにスターバックスが出来ていて、なかでもアッパー・イースト・サイドのコンドミニアムの近くにある店がぼくの行きつけだった。窓際の席に座り、本を読むか、彼女に手紙を書くかの日々。切ない気持ちを抱えながら、ぼくはそれまでの自分を追い越したかった。飛躍したかった。芥川賞でもノーベル賞でも、いつかは手に入る気がしていた。彼女がそばにいてくれるかぎり。
どれくらいの時が流れたのだろうか、やがてぼくと彼女は別れることになった。そういうものだ。彼女に貰った指輪は部屋の中でなくしてしまって、今も見当たらない。眠れない夜には、きまって彼女のことを想い出し、ぼくは服を着替て終夜営業のカフェに飛び込み、苦いコーヒーを注文する。そして余計に眠れなくなるのだ。
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